雑感42 命の輝き。

  私の息子、鈴木一臣の病歴をお話し致します。一臣は、中学一年の10月
までとても明るく活発なリ−ダ−的存在として、元気に過ごしておりました。
サッカー部に所属し、勉強も良くできる子でした。

  ある日、風邪をひき「扁桃腺からの高熱」と診断され、それ程気にもして
おりませんでした。しかし、いっこうに高熱が下がらず、近くの病院で点滴
をうたれ、その2時間後に始めて見る大きな発作が起き、全身けいれんで、
そのまま意識不明、呼吸停止となり、長い長い闘病生活の始まりとなりまし
た。顔から見る見るうちに血の気がなくなり、真っ白になり、殆ど眠ったま
まの仮死状態になりました。呼吸がないという事が、我々にはとても信じら
れない事でした。そして、一日数回の強度の全身けいれんに襲われました。
市立病院の診断では、ウイルス性の急性脳炎ということでしたが、はっきり
とした原因は未だにわかっておりません。ウイルスが、人間の大切な生命の
維持調整を司る最も深い悩幹に入り込み、呼吸を止めたと言う事でした。
市立病院の集中治療室での必死の治療で、人工呼吸器が取り外せるまで4ヶ
月以上かかりました。ネンブタールという最も強い抗けいれん剤で、けいれ
んを押え込んでいたため、意識までも押え込んだ状態が続きました。ネンブ
タールを抜こうと、少しずつその量を減らしていきますが、減らしていくと、
けいれんの重積の為、生命の危機に瀕するという事で、なかなかネンブター
ルを抜く事ができませんでした。主治医の先生からは、この時期は、「良く
て寝たきりの状態でしよう。」と言われました。医師団の必死の治療で、
奇跡的に生命が蘇ってきました。まぶたが開き、指が動くたびに、表現でき
ないほどの感動を得ました。

  歩けるようになるまでの運動機能の回復に、それから1ヶ月かかりました。
しかしながら、3つの大きな後遺症が残りました。その最大の後遺症が、全身
のけいれん発作でした。そして、後頭部を犯され、脳の視覚領域が破壊されま
した。目は見えているのですが、意識・判断ができません。両親と妹の顔すら
判別ができません。空間の認知・方向の意識も、なかなか難しいものがありま
した。そして、これまでの後天的に得た記憶は、ほとんど失ってしまいました。
悲しい事に、自分の名前すら書く事ができなくなりました。掛け算なども、
ほとんど忘れてしまいました。

  @ けいれん発作、A視覚的認知欠如、B記憶喪失が、彼の後遺症として、
我々に大きくのしかかってきました。今は、5才児くらいの知能かと思います。
それでも、生きている、命があるという事に喜びを感じた我々でした。

  市立病院を退院して、拓桃療育センターに入所し、もっぱら運動機能の回復
に努めました。毎日面会に行き、県内の遠くから送り迎えをする御両親のご苦
労を見るにつけ、行政の貧困さを痛感しました。片道3〜4時間かかって送り
迎えする方々がたくさんおられました。 
                          
  私は友人の紹介で、岩沼の「本格的てんかん専門病院ベーテル」を勧められ、
曽我孝志ドクターに出会うことができました。月に1回通院し、息子一臣は、
お蔭様で、けいれん発作の回数と、その大きさは、日に日に少なく、小さくな
ってきました。しかし、今でも30秒足りとも息子から目を離すことはできま
せん。私か妻のどちらかが、必ず目の届くところで見守っていなければなりま
せん。妻が洗濯物を取り込みに外に出たほんのちょっとした瞬間に、けいれん
発作におそわれ、息子は歯ブラシをくわえたまま倒れて、頭を打ったことがあ
りました。今でも勿論、抗けいれん剤の服用なしでは、ー日足りとも生きてい
くことができません。

  その後、仙台二中特殊学級、鶴ケ谷養護学校の高等部に進みました。私の妻が、
必死で車の運転を覚え、片道40分かけて送り迎えをしました。てんかん発作で
悩んでいる多くの家族との接点も多くなり、家の様子を詳しく聞くにつけ、大変
なご苦労が多く、皆さんは本当に困っているようでした。行政の貧困さ、無策さ
を痛切に感じます。私も自分の身に降りかかってみてはじめて、政治・行政の
貧困さ・無策さを・痛感している次第です。

  現在、てんかん専門病院ベーテルは、現行の医療法の制度上経営的にも、運営的
にも大変苦労されております。官僚的、縦割り的、硬直的な政治、行政でなく、実
際に困っておられる患者とその家族の様子を良く見ていただき、きめの細かい行政
をおこなってほしいと考えます。県と市が協力して、障害を持つ人々の病院、学校、
就職先、人生設計(親の亡き後の行き場、援助、指導)を含めて、総合的な、全体
的なビジョンを早急に整備してほしいと考えます。宮城県が、福祉先進県という割
には、具体的な施策が私には見えません。煩雑な手続き、嘆願しなければ、陳情し
なければ、動かないお役所、公的機関、機能していない行政サービス等が目に付く
だけです。病気、症状に応じた福祉の選択肢を、県や市が与えているでしょうか。
「自分達で勝手に捜して、好きなようにしなさい。」というやり方にしか見えませ
ん。両親とボランティアの犠牲の上に成り立っているという事実をよく考えていた
だきたい。一人一人の障害児に、その子に合った活躍できる生活環境と、生きる希
望を与える事が、政治、行政、福祉の真の使命と考えます。紙一重の運命の綾で、
知的障害という一生のハンディを背負わされた我が息子を見るたびに、少しでも元
の元気な状態に近づけたいと考えるのは、親として、当然の感情ではないでしょうか。

    県、市への具体的な提案、要求。
1、てんかん専門病院への支援。医療の充実。
2、障害者学校、義務教育後の受け皿。(選択肢が    非常に少ない。)
3、就職先を含めた障害者の人生設計の場。(小規    模作業所、グループホーム)

  勿論、息子一臣がここまで来れたのは、多くの先生、ボランティアの方々に暖か
い親身になった献身に支えらたからです。しかし、制度としての福祉的、政治的貧
困さは、目を覆うばかりです。障害者と、その家族には、何の罪もありません。障
害者を持った両親がどうしてこれほどまでに苦労をしなければならないのでしょう
か。見守っている両親は、疲れ切ってしまいます。ここに政治を見ずして、どこに
政治を見るのでしょうか。てんかんの実態を見ずして、何の行政があるのでしょう
か。全国で国立のてんかんセンターは、たった5ヶ所しかありません。しかし、私
は幸運にも曽我ドクターに出会えて、息子の命を救えました。曽我ドクターの熱意
と情熱がなかったら、息子の今は無いと思います。現在、我々を含めて、てんかん
医療を充分に受けていない、多くの声無き患者を救っていただきたい。

  息子一臣は、夕食中にけいれん発作に襲われ、箸を持ったまま倒れて、眠ってお
ります。目には、うっすら涙がにじんでおります。無念なのでしょう。切にこの息
子に合った社会復帰の選択肢を何とか捜してあげようと考えています。

  息子一臣が、命輝いて、元気に頑張って日々生きている様を見るにつけ、負けず
に私も頑張らねばと強く思います。愛する一臣の命の輝きは永遠と信じます。
                                                  鈴木誠一拝。