雑感18 <鈴屋金物の沿革>

  創業は私のおじいさん(鈴木久治氏)が、「自転車屋さん」で 昭和
10年くらいには一番町で露天で商売していたようです。それで親父
(先代の社長・鈴木鐡臣〈てつおみ〉氏)が鍋や釜などいわゆる「家
庭金物」を扱うようになって、(国分町)に移ったのは、私が生まれる
10年前の昭和16年位です。国分町のビルは、昭和39年頃に建設し
ました。結構古いんですよ。会社のビルができたのと同時に、三協アル
ミ(最初は鍋・釜も作っていた)の仙台支店が、当社の二階から始ま
りました。その時当社は、三協アルミの総代理店になったのです。この
おじいさんが、なかなかのアイディアマンで「万年タイヤ」というパン
クしないタイヤを発明して財を成したようです。町の発明家だったんで
すね。おじいさんは、42歳で隠居しちゃいまして、それから30年あ
まり、「久堂」という画名を名乗って絵(日本画)ばかり描いていまし
た。粋な風流人だったのです。私も子供の頃、よく鳴子温泉に連れてい
ってらった想い出があるんですが、おじいさんはやはり絵ばっかり描い
ていました。

  大学(早稲田大学商学部)に入ってからおじいさんから何度も毛筆
の達筆な手紙をもらいました。これがまた何とも風流で絵入りなんです。
俳句とか文も書いていました。この時代の一種の文化人ですね。うらや
ましい限りです。前の家にはおじいさんの友達の「北澤楽天」という
漫画家がふすまに絵を描いてくれました。残念ながら二日町大火で焼失
してしまいましたが…。Q.そのおじいさんの血は、やはりアイディアマ
ンの社長さんに引き継がれているようですね。42歳で隠居されるとい
うことは逆に隠居できるだけのゆとりがあったと言うべきでしょう。お
父さんは大変だったのじゃないですか? 私はおじいさんの隔世遺伝で
しょうか?…何かそのような感じもします。親父は自転車はこれからの
車社会ではダメになるという考えで、家庭金物を中心にやっていました。
私が子供の時〈昭和30年代〉は、正月の初売りでは朝4時頃から火を
焚いて初売出しをやってました。福鍋とか福バケツとか売ってましたね。
生活に身近な器物金物は良く売れました。今じゃ考えられないことです
が、物そのものに価値があって、あれば必ず売れてしまうという感じで
す。昭和10年代から20年代は戦争もあってか、商品があれば、すぐ
売れるという状態だったようです。

 建築金物を中心に商売し始めたものは、やはり昭和30年代くらいで
しょうか?世の中が落ち着いて家庭金物も普及しきって、戦後の復興と
近代化が進んで、ビルが建ち始めた頃です。始めはゼネコンさんよりも
大工さんがお得意さんでした。やはり木造の金物が売れたんです。近代
化、都市化の進展とともに、だんだん建設会社さんと本格的にお付き合
いするようになってきました。親父は、商売人で、やはり物があれば売
れた時代を知っているので、「あまり施工の方には手を出さない方がい
い。」と考えていました。「俺達は建設のアマチュアだから金物を売る
以外の事をするのは思い上がりだ。」という考えで、私が戻ってきて結
構5年くらい喧嘩しましたね。私としては時代のニーズとしては施工部
門を持つべきだとひしひしと感じていましたから…。現場を見るとやは
り金物の施工力が不足しているんです。「これは、施工も含めてトータ
ルな金物を考えるべきだ。」ということが現場で実感できるわけです。
それでだんだん親父が折れて、職人さんも雇うようになってきたのです。

 私は早稲田大学の商学部のマーケッティング学科(原田俊夫教授)の
修士課程を卒業して、大阪の児玉金物鰍ナ2年間修行して仙台に戻りまし
た。仙台に戻ったのは25歳。昭和53年です。児玉金物鰍ウんは金物販
売だけでしたが、大変勉強になりました。会社は昭和25年6月3日に株
式会社になって、現在社員が20名おります。資本金は1000万円。事
業内容は建築金物の販売・ステンレス・アルミ製作金物・厨房機器の設計・
施工などです。内の会社の謳い文句は、「快適な住空間の創造・ビル・
住宅・システムオーガナイザー」です。私は、働きがいのある、充実感の
ある会社にしたいと思っています。社員は指示待ちの人間じゃなくて、主
体的人間・創造的人間になって欲しい。ですから常に社員が何を求めてい
るのか?お金か?休日か?やりがいか?社員の意識の動向に注目しています。
主体性を持たせるには、やはり仕事を任せなければダメです。だから「失敗
してもいいからやれ!」と言ってどんどん若い人に仕事をやらせます。それ
で結構失敗するんですが。(笑い)、何もしないよりはずっといいわけです。
痛い目にあうと人間は成長して大きくなります。だから「失敗しても前向き
に倒れればいい。」と言っています。難しい点は仕事を任せても放任になる
んじゃなくて見守ってやる体制です。主体性を持たせる事と放任とは違うこ
とです。任せて失敗したからといって結果をその人間になすりつけてはダメ
なんです。やはり要所要所で上司がチェックしてやる。中間報告をしてもら
って相談にのってやる。もし進む道が間違っていたら方向を見直してやる。
このチェックのタイミングが難しいのですが、やはり若い人が伸びていく姿
を見るのが楽しくて仕方ありません。これが経営者の楽しみでしょう。

 就業規則は毎年見直して時代と現状にあわせています。「補足・社員心得」
で第1章は「業務実践訓。」第2章は「社員教育・経営哲学。」です。
「社員教育・経営哲学」は第71条まであります。「偉大な人物の行動の成功
は行動の手段よりも心の純粋さによる。」・・・良い言葉でしょう。当社では、
二者面談を比較的暇な6月から8月にまで実施しています。当社は勉強してい
る会社です。勉強会は週1回、5時から1時間です。新しい商品知識や施工の
知識・図面の描きかたから外部講師をお招きしてお話を聞いたり自己啓発に努
めています。また外部の講習会には若い人を中心にどんどん積極的に参加して
もらいます。会社会議は月1回。30分でおしまいです。部署会議も月1回。
営業会議は月2回。コミュニケーションを綿密にすると、どうしても会議の数
が増えてしまうので時間は短く設定します。当社の決算は9月30日です。
毎年、組織表も変えます。人事異動も毎年やります。若い人は、できるだけ動
かしていろんな仕事を学んでもらいます。そうすればトータルな段取りができ
るようになるんです。それに若い人は自己表現が下手なので、なるべく発表の
機会を与えて明るく自分を押し出せる訓練をしています。女子の仕事もこれか
らのコンピューターの発展で益々応用がきくようになっていくでしょう。今で
は経験が必要で10年かかった見積りも機械化・合理化して、3年くらいで誰
でもできるようになっていくと考えています。

 「社長」としての鈴木誠一ではなく「私人」としての自分でありたいと思い
ます。どんどん社業をシステム化して人間らしい生き生きとした会社を作りた
い。いい人材を育てたい。そして私がいなくとも、充分にやれるような会社に
早くしたいですね。本当に社員に喜びを与えられるような会社にしたいです。

 お袋が子供の情操教育に熱心だったので5歳の時からピアノを習いました。
それからおじいさんに絵を習いました。小学校では「木の芽合奏団」でバイオ
リンを弾いていました。この合奏団は東北のコンクールで優勝したんですよ。
中学(仙台二中)ではブラスバンドでトランペットを吹いていました。そして
仙台二高でラグビー部に入ったんです。これはおじさんの影響です。そして
大学はラグビー部に入りたくて早稲田に行ったんです。早稲田ラグビー部に
入ったのはいいのですが、1年で菅平の合宿で、もうこれ以上は自分の力では
無理だという事でやめざるを得ませんでした。傷心を抱いて早慶戦の前夜祭を
見に行ったら早大ハイソサエテーオーケストラに出会ったのです。生まれて
初めてカウントベイシィースタイルのビックバンドを聞いて「これだ。!」
と思いました。それから1日8時間テナーサックスの練習です。もともと運動
部の人間ですから「勝負だ。!」と思って、やたらロングトーン、タンギング、
スケールの練習をしました。その甲斐あって、入部3年目にレギュラーになれ
て、修士時代には、バンドマスターになれたんです。

  ジャズへの熱い思いを断ち切れず、ビバップスを結成して19年になります。
メンバーは全8名で、レントゲン技師から、サンドイッチ屋さんまで多彩
です。レパートリーは約300曲あります。オリジナルも10曲ほどあります。
どうぞ是非是非お声を掛けて下さい。
                                         鈴木誠一拝