雑感69、ゆとりの教育の光と陰

 2000年4月から全国の小中学校でゆとりの教育が始まった。
教育は、国家百年の大計である。今、教育界は、校内暴力、学校崩
壊、不登校生徒の増加、学力低下、理科離れ等の教育問題が山積し
ている。一方、今、日本では、偏差値教育、知識中心主義、テスト
中心主義で、過密授業、新幹線授業が一般化し、大学に入るまでは
熱心に勉強するが、大学に入るととたんに遊んでしまう学生が多く
なった。学歴社会、受験戦争、学力格差と落ちこぼれを生んだ。

 学校とは何か、どうあるべきか。子供達に何を伝えるべきなのか。
どのように伝えるのか。ゆとり教育とは何か。なぜ教育に「ゆとり」
をつけることになったのか。第一に、今の教育の受験戦争をはじめと
する詰め込み教育、第二に、個性を重視しようとする風潮を指摘する。
計算力は高いが、思考力、創造力は低く、日本の学力形成は、受験用
学力に偏っている。知的偏重一辺倒の過密授業から、教科書、マニュ
アルのない授業を求める声が大きくなった。ビートたけしや、脚本家
の三谷幸喜、サザンオールスターズ等、教科書の新しい試みがあった。
子供達が自ら考え、行動する生きる力の育成する為に、個に応じた、
体験的、問題解決的、人間尊重のきめの細かい教育を期待したい。総
合学習では、先生の真の力量が試されると考える。

 教育の原点は、家庭であるという事は、異論のないところである。
親は、人生最初の教師であり、生涯の師である。今、教育しない親、
議論できない政治家、経済、経営のわからない経営者、銀行家に満ち
溢れている。自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、自ら判断し、
問題を解決し、「生きる力」を育成する。ノルマをこなすだけの忠実
な人材は、必要ないと企業、会社は考えるようになってきた。現代日
本社会は、忠実、勤勉は、最低必要条件に過ぎず、積極的、創造的な
思考、行動姿勢を有する人間を求めている。無条件の価値観受容を認
めず、あらゆる価値観に対しての批判精神を持つたくましい人間の育
成を目指すべきである。フリースクール、訪問教師等の要望が高まる
現代は、文部省主導の学校というシステムそのものの終焉を意味して
いると考える。今、文部省の管理の下に行われている画一な教育から
の脱皮が必須と考える。今、若い人の間で社会的な事柄や知的な事柄
に対する無関心の拡大、或いは考える力の欠如が、民主主義の根幹そ
のものを揺るがしていると考えざるを得ない。
 
 教育現場での週5日制が始まった。現実問題として、子供達が、学
校以外での時間が増え、家庭や地域で触れ合いの機会が、これまで以
上に重要になる。共稼ぎの土曜日にどうするかが、現実的問題として
出てきた。休みの日は、学校から離れて、家庭や地域で、自分の好き
な事、スポーツ、音楽、様々な体験をする絶好のチャンスである。子
供達の学ぶ事への興味、関心を深め、学校、教科書の知識だけでなく、
自然体験や家族の団欒を通して培われる。しかし、はたして、地域社会
で、この体験学習の受け皿が制度として、整っているだろうか。官僚的
な発想の貧困さを感じるのは、私だけであろうか。ゆとりの教育が、教
育の二極化政策であってはならない。ゆとり教育なんて、大学入ってか
らでいいという考え方もある。知的なゆとり教育は、より深い学の世界
への好奇心を生み出す事を目的としている。進学塾は、ある意味で、知
識詰め込みで有能な子供達の思考停止させて知的奴隷化し、機械的暗記
により、創造的思考を奪い取った。ゆとり教育によって、学力の低下は
否めないと考える。なぜと疑問に感じる力、それを解決する力、これら
を総合した学力が大事である。知識詰め込みは、一般にマイナスと考え
られているが、ある時期、知識詰め込みも重要と考える。知識詰め込み
により、自己管理が可能となり、思考力の根幹、土台作りをするものと
考える。

 人間性豊かな日本人を育成する為に、何が必要であろうか。まず、教育
の原点は家庭であることを自覚する。次に学校では、道徳、倫理を教える。
そして、ボランティア、奉仕活動を地域社会で実践で教えていく。その為に
一人ひとりの才能を伸ばし、創造性に富む人間を育成する。記憶力偏重の一
律主義を改め、コミュニティスクール等の新しいタイプの学校(教育システ
ム)を立ち上げる。もっと新しい時代に対応した教育施策が必要である。高
校ぐらいまでに、基礎的な思考能力を身につけないと、日本の高等教育の危
機は、現実化してくる。知的亡国論を憂うるのは、私だけであろうか。行き
過ぎた平等主義による教育の画一化、過度の知識の詰め込みにより、子供の
個性、能力に応じた教育が軽視されてきた。ゆとりを持つことで創造力を高
め個性を育てる教育が必要である。
 
 知識の細分化がもたらした文科系の知識と理科系の知識の乖離が大きくな
ってきた。文系、理系の知識を再結合させ、知の総合化をはかるべきである。
文科系の知識人と理科系の知識人は、全く別の世界に住んでいて、お互いに、
相手をまるで理解しようとせず、背を向けあったままで、融合しようとしない。
現代教育は、早くスペシャリストに仕立てあげようとしてきた。文科系の教養
と理科系の教養を合わせ持つ人(ゼネラリスト)が少なく、知識が非常に偏っ
ていて、知っている事は大変よく知っているが、知らない事は、何も知らない
人間が多くなった。必要とされるのは、人文科学、自然科学、社会科学の三つ
の分野を、それぞれ偏ることなく広く学習したハイレベルのゼネラリストである。
一時、スペシャリストの時代といわれて、誰もがスペシャリストにあこがれ、ゼ
ネラリストは、つぶしがきいて何にでも使えるが、どの分野でも大して使いもの
にならないというな見方が強まった。低いベルのゼネラリストは、その通りだが、
スペシャリストの上に立つハイレベルのゼネラリストこそが、今、肝要である。
バランスがとれたゼネラルな知識、知恵を持つことで、物事ををトータルに総合
的に見ることができる人間を育てる事が、肝要である。現代の知の世界は、留ま
る事のない細分化によって、その全体性が失われようとしてる。細分化による知
の解体現象に抵抗して、知の全体性を復元できるのが、ハイレベルのゼネラリス
トの社会的使命と考える。そもそも高等教育とは、何のためにあるのか。目的は、
現代社会が必要とする知的労働者の供給である。決して、専門バカ的なスペシャ
リストを沢山育てることではない。決して、教養がない専門バカの大量生産機構
ではない。世の中のひずみ、不祥事は、すべて、この現象の露呈であるといって
も過言ではない。専門領域の事まである程度わかるというレベルのハイレベルの
ゼネラリストを育てる事が必要である。一番大切な資質は、創造性であり、その
創造性は、異分野との接触によってのみ、生まれる事は、論を待たない。インタ
ーディシプリナリー(学際的)な他の広い領域との融合をはかり、知的化学反応
を起こし、新しいものを世に送り出す。単なる評論家はいらない。実社会では、
必ず自分が当事者になり、目の前の問題を解決していく必要に迫られる。

 教育の核心である創造性は、演繹的思考より、帰納的思考に依存すると考える。
総合学習では、自らの言葉で考え、議論し、法則、ルールを導いていくライフスタ
イルを小さいうちから根ずかせる教育が大切である。なぜ学ぶのか。学びとは、何
か。教育は、いい大学に入る為、いい会社に入る為、いい生活をする為の手段では、
決してなく、教育そのもの、学びそのものが目的であるという事を明確にすべきで
あると考える。学びの楽しさを前面に打ち出し、好きだから学ぶ子供達をたくさん
作っていくべきである。知的好奇心をいかに気ずかせかを、親、学校は、知的選択
肢を豊かに示すべきと考える。ゆとりの教育を今こそすべての国民が考え、議論し、
経済大国から、教育大国への移行を本気で考えなければ、日本の未来はないと考える。
いかがなものか。

                                      平成14年5月5日(日)鈴木誠一拝