一族の皆さんへ。 お晩です。 金沢の信夫です。
今朝、誠一から故郷山下地区大震災の写真が送信され、茫然失語の
按配にて、見ていました。
去る3/16に山形大学山岳部OB会「KOBOLD会」手配の被災後の航空
写真サイトを見て凡その被害を想像していましたが、懐かしき故郷の現
実の状景を実感し、正しく言葉が有りませんでした。
其の時分、何十回、何百回往復した常磐線とその沿線の景色や、故郷の
山下から磯浜への原風景等など思い出していました。現実の残酷な激変
に只々驚愕でした。
その中で、一族の表面上の元気な姿、表情を見て、それがせめてもの安堵です。
現状、今後と大変な過酷な現実が待っていますが”生きていれば今年で
102歳になる我が母親冨沢とみ”は多分こう言っているでしょう。
「今をしんぺいしてもしゃんめい!いいと思うことをやるほがねー!神さんは
みていっから」と。 明るく、前向きに頼みます。
反面、親を想うたびに亡くなっていてくれて良かったと思うことは不敬なのかと?
信夫拝。
おばんです、冨沢信重です。
「津波」という言葉が文献に初見されたのは400年前に起きた
「慶長三陸地震」だそうです。
「政宗領所海涯人屋、波濤大帳來、悉流失す、溺死者五千人、
世曰津波云々」と。伊達政宗の所領を襲った大津波から今回の大惨事まで
歴史の中で幾たびも東北を苦しめてきました。
今回も地震だけでしたらこのような大惨事に至らなくて済んだはずですが
誰しも予想だにしなかった10Mとも15Mとも云われる高さの津波には
人間が今までの経験と叡智を絞って作り上げてきた防波堤も、なすすべが
なかったとしか言いようがないようでした。
冨沢商店社員三名の家屋も津波により一戸は全損、二戸は床上浸水、
誠一君の写真でも分かる通りの惨状でした。運よく会社の事務所は
難を免れましたので、当面三家族の非難場所として応接室、会議室、
事務室を寝床に雨露をしのぐ程度の生活をしてもらっております。
昨日誠一君と俊明君に援助物資持参でお見舞いに駆けつけていただき、
この場を借りて厚く御礼申し上げます。
このように応援物資が得意先取引先親族一族様からぞくぞくと届いておりまして
会社の住人曰く「普段の食事よりも豪華で避難太りするんでねぇべが」と。
「打ちひしがれ、絶望のふちに沈みそうな心を少しでも救えるとしたら、
それは互助のぬくもりではないか、自然の前に無力でも、人は支えあう
力で強くなれる。いや、ならなければ。これからの長い闘いを乗り切って
いくためにも。」(あるコラムから)
少し前に、タイガーマスク伊達直人が話題になりましたが、日本全国の
全ての方々がタイガーマスクであったことが、被災地におりますとひしひしと
感じられ、チョットした声援にも目頭が熱くなるのを禁じえないのは
私だけではないように思っております。
余震も相変わらず頻発しており、また原発の恐怖も禁じえませんが
生活の面でも仕事の面でも一歩一歩前進したく思っておりますので
何卒、被災地のみなさんにご声援ご支援のほど宜しくお願い申し上げます。
追伸:誠一君昨日のメールで冨沢家の蔵が津波で流されたとありましたが
冨沢家までは津波はきておりませんで、地震の揺れで倒壊しました
ので、訂正させていただきます。