雑感89 <偉大なる祖父、冨沢岱蔵。>

  平成15年5月29日(木)、母方の偉大なる祖父、冨沢岱蔵氏が
満97歳(享年98歳)で逝去された。明治39年3月4日生まれの
私のまぎれもないルーツであり、心の拠り所であり、人生のお手本で
ある事は、いうまでもない。冨沢岱蔵氏は、私にとって、鈴屋金物
の創業者の鈴木久治氏と並んで、私の全人格を育んでいただいた親愛
なる偉大なる祖父である。

 忍耐、努力の人、冨沢岱蔵氏の幼名は信(まこと)、食糧事情の悪
かった戦前、混乱の戦時、戦後の順風と逆風、繁栄と不況、幾多の競
争、紆余曲折、厳しい試練と苦闘の道をくぐり抜けて来た。米穀商、
肥料商、製麺商、精麦商、青果商等、時代の趨勢に素早く即応した
商売一本道、商売一筋を貫いた不屈の人であった。

 「努力する者は、必ず勝つ。」祖父、冨沢岱蔵氏の口癖であった。
「健、謙、倹」の三ケンの教えが祖父、冨沢岱蔵氏の率先垂範の氏の
生き様であった。健康に人一倍心をくだき、腹八分目を心がけ、人に
接しては春風の如くいつもありのままの等身大の謙虚さで貫かれて、
富める時も倹約を旨とした。

 祖父、冨沢岱蔵氏は、少年時代、講談社の「日本少年」を読み感動
したという。
「あれを見よ。深山の奥に花が咲く。真心尽くせ。人知らずとも。」
「桜さえ、春を忘れず、立派に花が咲く。自分の花が咲き、実を結ぶ
のは、いつだろう。よーし、一生懸命辛抱し、花を咲かせるんだ。」
と固く心に誓ったという。

 祖父、冨沢岱蔵氏は、向学心を押さえがたく進学を強く希望したが、
家庭の経済的事情で進学を断念した。中外商業新聞(現日本経済新聞)
に勤めながら夜間は大学へ通いたいと強く望んでいた。大正9年高等科
卒業後、大日本中学講義録、早稲田大学商業講義録等で自らの学びを続
けた。母正子を初め、叔父、叔母皆さんに、高等教育を与えたのは、祖
父、冨沢岱蔵氏が強く持っていた向学心によるものと考える。

 祖父、冨沢岱蔵氏は、信仰心が厚かった。「立派な商人にになりたい。」
この一念が、誰にも負けない努力を引き出した。「千里の道も一歩から。
どんな高い山でも一歩一歩の積み重ねが、見事山頂を極める。自分の
足下を見よ。自分の商売に努力せよ。人生は、一生辛抱。」と多くの
教えをいただいた。中外興業梶A日清飼料梶A大洋飼料梶A丸紅飼料梶A
中部飼料鰍フ特約店になり、宮城県の畜産界に多くの貢献を果たした。

 祖父、冨沢岱蔵氏は、地元山元町に対して多くの地域貢献を果たした。
昭和24年、山下駅建設の運動の世話人として尽力し、ついに当時の運輸
次官佐藤栄作氏から山下駅設置許可が下った。山下小学校PTA発足にも尽力
し、昭和23年4月初代副会長し推挙された。昭和30年3月山元町が誕
生し、当時の町長、菅野長三郎氏から収入役への就任要請を三顧の礼で懇
願された。熟慮熟考の末、商売の窮状を訴え、辞退した。昭和30年12月、
再度、山元町監査委員の要請を受け、監査委員に任命された。昭和35年
12月山元町商工会初代会長に推挙された。昭和54年4月山下福寿会会
長に推挙された。山下福寿会では、教養を高め、地域から愛される老人を
目指す運動を広めた。昭和60年5月仙台地方老ク連合会長に推挙された。
健康、福祉、経済の三つを基本に、一人一人の心の持ち方、生き甲斐を持
って、元気に楽しく生きる事が大切であると言っておられた。晩年は良き
山元町の相談役として、地域を愛し、地域の発展の為に尽力した。

 商売には栄枯盛衰はつきもの、繁盛の時は、資金蓄積が絶対必要と説いて
いた。人との出会い、触れ合いを大切にし、すすんで多くの人と親しく語り
交わった。綿密な計画、強力な実践、実施後の猛省は、今私の商売にも生き
ている。商売は、物のやり取りだけではなく、心のやり取りを大切にする事
を身をもって教えていただいた。偉大な祖父、冨沢岱蔵氏の孫である事に誇
りと自信を持って、冨沢岱蔵氏の教えを、商売に、人生に実践していきたい。
おじいちゃん、長い人生の旅路、ご苦労様でした。とみおばあちゃんと一緒
にゆっくりとお休み下さい。おじいちゃん。ありがとうございました。

       平成15年6月1日(日)      鈴木誠一拝(長女正子の長男)