雑感67 「還暦に想う六中観的生き方」(「壺中の天」で楽しもう。)

 安岡正篤氏の百朝集に、六中観という人の道を説いた名言がある。安岡正篤氏は、
孔子、孟子、老子、荘子ほか東洋先哲の教訓に潜む普遍の真理を、人の道と指導
者のあり方を論じた実践活学を説いている。安岡正篤氏のテーマは、人の道と指導
者のあり方に関する教えが多いので、安岡人間学(人物学)といわれる。安岡正篤氏
は、人間の基本は、活力、気迫、生命力であり、不変の真理を人間の品格を涵養す
る徳におき、人徳のない人間の行動は、必ず破滅すると説いている。現代風にいえば、
最高のリーダーシップの心構え、条件とは、何か。どのような人間にならなければな
らないかが、この六中観に説かれていると考える。

「死中、活有り。」
「苦中、楽有り。」
「忙中、閑有り。」
「壺中、天有り。」
「意中、人有り。」
「腹中、書有り。」  
「死中、活有り。」 

「死中、活有り。」
 経営者は、毎日、どのような苦しい判断に迷う時でも、進め、止まれ、退けのラッ
パを吹かなければならない。いついかなる時でも、業務命令を出さなければならない。 
人は、流れに乗っている時は、さすがと言われ、流れから外れ、落ち目になると、や
っぱりと言われる。人間が死と裏腹であるように、企業は常に倒産と裏腹で、その死
と裏腹の中に常に、生命力の躍動として、活を求め、機運、ムードを高めていかなけ
ればならない。私が経営する鈴屋金物鰍ヘ、お蔭様で昨年平成22年6月3日に創業
60周年を迎えることができた。ただただ感謝である。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬も
あれ。」ということわざがあるように、一身を犠牲にする覚悟があって、初めて窮境
を脱し、活路を見出すことができる。死ぬ気になって道を開こうと努力すれば、開け
ない道はない。男子、まさに死中に活を求めるべし。座して窮すべからず。である。
本当にせっぱ詰まった死の中にこそ、活がある。現代は、生業を続ける事が、非常に
困難な時になってきている。どうしようもない状況が続くと、人間は諦めたり、逃げ
出したくなるものである。しかし、人間は、「背水の陣」で、追い込まれる事により、
通常の能力以上の能力が発揮される。「背水の陣」を敷いて成功した名経営者達の心
中は、まさに「死中、活有り。」を信じ、決断を下していたと考える。「絶体絶命の
ピンチだ。もうだめだ。」という事態に陥っても、諦める事無く、死を背にした、死
ぬ気の覚悟で、活路を見出す勇気を奮い起さなければならない。「葉隠」に「武士道
とは、死ぬことと見つけたり。」と言う金言がある。日本の「武士道」にも通じる
「死中、活有り。」を深く心に刻み込みたいものである。「死中、活有り。」は、
深い宗教心がなければ体得できない境地のようではあると考えるが。

「苦中、楽有り。」
 デフレの世が来ても、すべての需要がなくなるものではなく、半分になった需要を、 
同業者と取り合い、奪い合うので、生易しい苦しみで勝ち抜ける道理はない。生き残
る会社とは、本当に苦しみに耐え抜く会社である。相手よりどれだけ苦しんだかが、
勝てるかどうかを分ける。良寛は説く。「苦しみから逃るるは、苦しむがよろしく
そうろう。死より逃るるは、死ぬがよろしくそうろう。」人は、苦しみから逃れる事
はできない。苦しさの中に心にゆとりを持つと苦しさが一味変わってくる。苦しさが
生き甲斐となり、面白みを帯びてくる。「苦中、楽有り。」とは、人は、楽ばかりで
は頽廃する。苦中の楽こそが本当の楽であり、苦しみの中にこそ、初めて楽しみがあ
るという教えである。苦しい中にあっても、楽しみを作って、心の余裕を持たねばな
らない。もう一歩踏み込めば、苦楽を作り出しているのは「心」に外ならない。切羽
詰まった状況下においては、現実をどうするかということよりも、わが心をいかにす
るか、平安、安寧にするか、ということが大問題である。現実、現象は、いつも中立
で我心の反映に過ぎない。右手に屍(しかばね)の山、左手に花畑、どちらを向いて
歩くかは、私たちの心の選択次第である。苦しみ抜く最中に楽しみを見つけたいも
のである。

「忙中、閑有り。」
 人生、いつの時代も楽な世の中はない。人は、どうにもならないところまで、追い
込まれる。忙しさ、苦しさから逃れる事は所詮できない。忙しさの中にゆとりを持つ
以外に、道はない。ただ忙しいだけだと、ノイローゼ、精神障害を起こす。忙しさは、 
永久になくならないので、忙しさの中に、いかにして、心にゆとりを持つかを、己が
己の為に心掛ける以外はない。忙しいからこそ、閑が存在する。何もすることがなく
ての閑は、生きていない閑で、無意味な閑である。繁忙の中から得た時間、閑こそ
が本当の生きた時間である。暇の中には閑はないのである。忙しい(陽)中に、閑
(陰)を見つけてこそ、有効に活用できる。忙中の旺盛な気を活用してこそ、閑を
有意義にする。ビジネスに忙しい(陽)時こそ、陰の時間、スポーツ、音楽、趣味、
読書、散歩、瞑想、哲学、信仰、ボランティアなど自分らしい時間を有効に活用
すべきである。陽の中でやってこそ、陰の時間が生き、又 陽、ビジネスに役立ち、
相乗効果が出てくる。忙中、苦中にも楽があるとして、禅僧は、心のゆとりを示し
た。心がすり切れるまで、忙しい振りをするのではなく、心の余裕を持ち、時間の
コントロールをすべきである。一日の中で、心を見つめる時間を生み出すように
すべきである。本当に忙しい人ほど、この「閑」を作り出す事が上手である。西洋
のことわざで「大事な仕事は、忙しい人に頼め。」とあるように、どんなに忙しい時
でも、閑な時間はあるものである。忙しい時であっても、心が落ち着いて静かで
あるのが閑で、忙中につかんだ閑こそ、本当の閑である。先人は、激しい空襲の
中でも10分、20分の短い閑に悠々と一座禅、一提唱を実践したと聞く。

「壺中、天有り。」
 「漢書」方術伝、費長房の故事によると、「昔、中国に費長房という役人がいて、
何気なく役所の窓から往来を眺めていると、城壁の下に座って一人の老人が薬を売
っている。気になり、仕事が終わってから、老人をたずねる。老人は、横に小さな
壺を置いていた。老人は、店をたたんで、壷の中にパッと入って見えなくなってし
まった。面白いものを見つけた。仙人でなないかと思い、神秘なものを見せてもら
おうと考えた。次の日の夕方、そこへ出かけて行って、昨日壺の中に入って消えた
ところを見てしまったと告げた。「是非とも今日は自分を一緒に壺の中へ連れていっ
てくれないか。」とお願いした。老人と一緒に、その壺の中へ入って行った。その中
には美しい山水があり、金殿玉楼があって、歓を尽くして帰してもらった。」とい
う話である。壺中の中に天がある。「壺中、天有り。」日常の生活の中に一つの別
天地を持つことを「壺中の天」という。人間はどんな境遇にあろうとも、自分だけ
の壺中の天を創り得るものである。我々のまわりにも「えっ、この人にこんな趣味、
奥床しい芸があったのか。」 という事がよくある。自分の別天地を持っている人は、
いかなる逆境にあろうとも、救われる人である。スポ−ツ、音楽、文学、芸術、哲
学、信念、信仰等を持つことによって、意に満たない俗生活から解放され、救われ
る。壺の中にも天があるとは、自分の現実生活に別天地を持てという事である。自
分だけの世界を持ち、深めていく努力、道すがらが尊いのである。苦難にあっても、
心に余裕を持って生きていく時間、夢中に生きる時が、「壺中に、天有り。」であ
る。安岡正篤氏は、「たとえ一日5分でもいいから、壺中天有りの生活をせよ。」
と説いている。人間はどんな、境遇の中にあっても、自分だけの内面世界を持つ事
の大切さを説いている。壺中天とは、まさに、俗事を超越する一刻の楽境であり、
自分の現実生活の中に別天地を持つということである。現実の中に、別の世界を持
っている事が大切である。意に満たぬ俗生活を強いられる事が、よくある。毎日の
日常生活で、絶えず何かに打ち込んで、充実した生活を送る事を心がける事が大切
である。そこには、名誉とか利害などは、一切ない。日常の中に、人知れぬ別世界
「壺中の天」を持つことは、人生にとって非常に重要な事である。「壺中の天」を
どこに、見つけたら良いのか。「壺中の天」は、言い方を変えれば、オンリーワン、
自分だけの存在感のある人間の世界である。「・・・に関しては、あの人しかいな
い。」そんな世界である。人間はどんな境遇にあっても、自分だけの内面世界、
「壺中の天」を創る事が、大切である。私には幸い「壺中の天」がある。私の金殿
玉楼の「壺中の天」は、早大ハイソであり、ビバップスであり、ジャズであり、ラ
グビーあり、早稲田大学である。人は、「壺中の天」を持つかによって、その人の
風致(おもむき)が決まるといっても過言ではない。

「意中、人有り。」
 「意中、人有り。」とは、いつも自分の心の中に、大切な人がいるという事である。 
常に心の中に、自分が尊敬している人物がいて、その人のようになろうと、近づこう
と努力する事自体が、人としての修養になるという教えである。意中の人とは、ここ
では、恋人の意味ではなく、常に心の中に目標とする敬愛する人物を持つという意
味である。人生のあらゆる場面において、人材の用意も意味する。「落石時に閑有り、
我が意中の人を念う。」という名言がある。いつも自分の心の中に、敬愛する哲人、
偉人を崇拝、憧憬して、見習おうとする事は、尊い事である。何事によらず、人材
の用意があるというのは大事なことでである。何か事を為そうとすれば、協力して
くれる。自分一人でできる事とはたかが知れている。それぞれの分野で、協力して
くれる人、援助してくれる人を、常に心に用意しておく。何時いかなる時でも間
に合う人を知っている、持っているということである。何事によらず人材の用意が
あるという事は大事な事である。尊敬できる人を心の師とする。亀井勝一郎氏の言
葉を借りれば、人師への邂逅である。人生を語り合うにはあの友、病気になったら
あの友、日頃から、意中の人を射止めておく事が大事である。意中の人は生きてい
る人と限らないと私は考える。今は亡き先人も、時として意中の人となりうる。
その時々で必要な情報をキャッチするアンテナによって、先人の発する知恵の波動
を感知すべきである。

「腹中、書有り。」
 「腹中、書有り。」とは、腹の中に書物を持つという事である。自分の心の中に
確固としたゆるぎない信念や哲学を持っているという事である。頭の中に、断片的
な知識ではなく、しっかりと腹の底に蓄えた哲学を持つ。常に、先端の知識、教養が、
腹の中にあるか。書を読む事によって、信念を作り、見識を養う。俗人が衣服のきら
びやかさを自慢げに、見せびらかすのに対し、腹蔵する書を示すという反骨の心の反
映でもある。「腹中の書」とは、自分の血肉となった愛読の書をいう。自分の心の中
に先人の教えがあり、書がある。信念を作り、見識を養う優れた人生観、世界観の書、
座右の書を持っているかという事である。人は、腹の中にしっかりとした哲学、信念、 
座右の書を持つべきである。いついかなる場合でも、腹中に哲学、信念があり、万巻
の書がある。己を導く愛読書、聖賢の書、座右の書を置いて、常に、修養に努め、人
間として徳を磨く。腹中に哲学、信念がある。万巻の書がある。

「還暦に想う六中観的生き方」      
 私が考える六中観は、「死中、活有り。」「苦中、楽有り。」「忙中、閑有り。」
は、 「忙」「苦」「死」の三文字で、せっぱ詰まった状況、人生のピンチにおける
心の持ち方を説いたもので、起承転結の起を表していると考える。「あなたは、どう
にもならないような極限を味わった体験がありますか。?」と説き、人間は極限まで
追いつめられなければ、心の奥深い所から沸き起こるエネルギーによった真の解決策
は生まれて来ない事を説いていると考える。どうにも手の打ちようがない極限状況ま
で追いつめられたかどうかを、「忙」「苦」「死」の三文字で表現していると考える。
「中有」(ちゅうゆう)は、「ちゅうう」と読めば、生まれ変わるまでの時間を表す。
人が死んでから、次に生まれ変わるまでの時間を「ちゅうう」と言う。中有は、中庸
(儒学の中にある哲学)の中≠ナあり、中有は仏教である。神道では、中道という
文字を使う。仏教、神道、儒教、皆中≠ニいう文字を使う。それぞれの対句になっ
ている「閑」「楽」「活」 これらは、せっぱ詰まった状況から見る一筋の光明である。
飢えた者が食を求め、病める者が医薬を求めるように、我が心を癒してくれる処方箋
としての「六中観」は、その病状次第で、いくらでも加減ができ、いつどこでも誰に
でも効く特効薬になる。それぞれの境地に合わせて味わえばいい。「忙」「苦」「死」
を受けて、「承」の感覚で見れば、そのような状況を切り抜ければ、「壺中の天」が
待っている。壺中の天は、清らかな心洗われる天地自然の音そのものである。本当に
心の底からゆったりできる、のびのびとした天地、世界が壺の中にある。「壺中有天」
は、真に自分自身を生かす場所、生かす道である。極限状況をくぐり抜けることによ
って、体験できる。淡々と進んできた道を、一変せしむるものが、人との出会いであ
る。自分の人生を一瞬にして変えてしまうような人との出会いが、「人」である。
「意中有人」の「人」は、心の中にどっしりと根が生えて、揺るぎない、動じない状
態である。最後の結び「結」は、「腹中有書」は、全て六中観は、ここに収斂すると
考える。「書ありやなしや。」「何の為に生まれたのか。?」「何故、今生きている
のか。?」といった人生に対する根本的な問い、哲学の命題にあなたはどう答えるか。
?いかに「悟り」に到達するか。六中観を味わい、自分自身の血肉としていく為には、
「人間はどこから来て、どこに行くのか。?」「自分自身が何故生まれ、一生かけて
何を為すべきか。?」その問いを常に自分自身に対して設問し続けることである。い
ついかなる場合でも、決して絶望したり、仕事に負けたり、人生に屈したり、精神的
空虚に陥らないように、六中観を味わい、解釈し、心を奮い立たせるべきと考える。
苦しみも楽しみも、人生の喜びとなって、我が身に取り込むことができるようになる
と考える。還暦を迎える今、日々、自分を惜しまず、自分が目指すゆったりとした心
豊かな「壺中の天」の中で、全力投球的、完全燃焼的、六中観的生き方を、自分の日
常生活の中に生かしたいものである。
                           平成23年1月29日(土)推敲、鈴木誠一拝