雑感68、無漏智の境地

 今、仙台は、桜が満開である。桜が満開に咲き誇るのを見て「きれいだなあ。」
と率直に感じる。そこでその美しさの中で、自分の心をいっぱいにする。しかし、
その後「この満開の桜が雨によって散るのはもったいない。」と思った瞬間、心の
中では、既に雨が降りだしている。「きれいだなあ。」と感じた今、この時を大事
にする生き方が、大切である。

 人は、日々の出来事の中で喜び、怒り、哀しみ、楽しんでいるが、これらの喜怒
哀楽は、すべて知識から発している。喜怒哀楽のすべては、相対性を以っており、
すべてのものが常に変化するので、無常であり、不変性を持たない。本当に日々を
生き切るということは、知識という言葉でいったん翻訳せず、ただ観て感じたまま
で生きることが、大切である。

 仏教には、無漏智(むろち)と有漏智(うろち)という概念がある。有漏智とは、
人間の限られた漏れのある知恵、知性、判断力をいう。有漏智は、完璧ではなく、
必ず漏れる。人間の考えられる限りを尽くす事、人知を尽くす事には、限りがある。
有漏智からは、パプニングまでは、計算できない。襖の向こうが見えない。三年先
が見えない。限られた漏れのある知恵が、有漏智である。漏れのない知恵が、無漏
智である。パプニングまでをも計算し尽した般若の知恵、パーンチャである。人間
の知性、判断力、合理主義は、有限だが、般若の知恵、無漏智は、無限である。こ
の、般若の知恵、無漏智が、仏教、禅でいう悟りである。現代社会は、いくらコン
ピュータを駆使して、情報を集めた合理的な判断でも、必ず漏れがある。漏れがあ
るという事は、未来が分からない。

 しからば、どうしたら人は漏れのない知恵が得られるだろうか。無漏智とは、あら
ゆる執着を、脱ぎ捨てて、心の中が真に、解放された状態での知恵をいう。精神の動
揺が全くなくなって、正しい智慧が生まれた状態である。もはや、不安というものに
悩まされることはない。この時、無漏智が生まれる。有漏智には、煩悩があるが、無
漏智には、煩悩の汚れが一切無く、清浄である。仏教でいう無漏智を得るとは、解脱、
悟りと同義である。神道では、考えるは、神帰るという。人間が、雑念を取り去り、
無心になる、色即是空、空即是色の心の状態に到達できた時、己を超えた知恵、無漏
智の境地に達するのでは、なかろうか。無漏智の境地は、何より天地に対する敬虔な
思いが重要であると考える。人は、無漏智の境地に、いつになったら達する事ができ
るのであろうか。 

                                        平成14年4月7日(日)鈴木誠一拝