今、仙台は、桜が満開である。桜が満開に咲き誇るのを見て「きれいだなあ。」 と率直に感じる。そこでその美しさの中で、自分の心をいっぱいにする。しかし、 その後「この満開の桜が雨によって散るのはもったいない。」と思った瞬間、心の 中では、既に雨が降りだしている。「きれいだなあ。」と感じた今、この時を大事 にする生き方が、大切である。 人は、日々の出来事の中で喜び、怒り、哀しみ、楽しんでいるが、これらの喜怒 哀楽は、すべて知識から発している。喜怒哀楽のすべては、相対性を以っており、 すべてのものが常に変化するので、無常であり、不変性を持たない。本当に日々を 生き切るということは、知識という言葉でいったん翻訳せず、ただ観て感じたまま で生きることが、大切である。 仏教には、無漏智(むろち)と有漏智(うろち)という概念がある。有漏智とは、 人間の限られた漏れのある知恵、知性、判断力をいう。有漏智は、完璧ではなく、 必ず漏れる。人間の考えられる限りを尽くす事、人知を尽くす事には、限りがある。 有漏智からは、パプニングまでは、計算できない。襖の向こうが見えない。三年先 が見えない。限られた漏れのある知恵が、有漏智である。漏れのない知恵が、無漏 智である。パプニングまでをも計算し尽した般若の知恵、パーンチャである。人間 の知性、判断力、合理主義は、有限だが、般若の知恵、無漏智は、無限である。こ の、般若の知恵、無漏智が、仏教、禅でいう悟りである。現代社会は、いくらコン ピュータを駆使して、情報を集めた合理的な判断でも、必ず漏れがある。漏れがあ るという事は、未来が分からない。 しからば、どうしたら人は漏れのない知恵が得られるだろうか。無漏智とは、あら ゆる執着を、脱ぎ捨てて、心の中が真に、解放された状態での知恵をいう。精神の動 揺が全くなくなって、正しい智慧が生まれた状態である。もはや、不安というものに 悩まされることはない。この時、無漏智が生まれる。有漏智には、煩悩があるが、無 漏智には、煩悩の汚れが一切無く、清浄である。仏教でいう無漏智を得るとは、解脱、 悟りと同義である。神道では、考えるは、神帰るという。人間が、雑念を取り去り、 無心になる、色即是空、空即是色の心の状態に到達できた時、己を超えた知恵、無漏 智の境地に達するのでは、なかろうか。無漏智の境地は、何より天地に対する敬虔な 思いが重要であると考える。人は、無漏智の境地に、いつになったら達する事ができ るのであろうか。 平成14年4月7日(日)鈴木誠一拝