気まぐれな楕円球


  仙台二高ラグビー部が、創部70周年を迎えた。何とも輝
かしい金字塔か。700名近い若人が、ひたすら気まぐれな
楕円球を、汗と泥と涙とともに追い求めてきた。私も、その
700名近い中の1人として、熱き志をいだいて、二高に入
学して、はや30年が過ぎ去ろうとしている。心の出会いの
数多くは、二高の学び舎で育んだものだった。私は、あのす
すけた青春の砦、ラグビー部室に入りびたり、「こうやって
つやを出すのだ。」と、うすよごれた楕円球をこわきにかか
え、昼飯で使いきったつばを無理やり出して、一生懸命ボー
ル磨きに専念し、日々、気まぐれで、不条理な楕円球をおっ
かけていた。二高ラグビー部は、私の青春のすべてであり、
一生涯のすばらしき同期の仲間、先輩、後輩との人間的な友
情は、今でも昔と変わりがない。二高ラグビー部には、質実
剛健さはもとより、一途な男臭さ、ノスタルジアを感じてい
る。

  私が、二高ラグビー部で出会った名選手、或は、迷選手に
登場していただこう。私が入部した当時の3年生(高校20
回卒)は、全身が筋肉痛の固まりの名フランカーキャプテン
金本和男氏をはじめとして、7人と記憶している。フォワー
ドでは、プロップの安田英明氏、ロックの小田桐徹氏、フラ
ンカーの金本和男氏、バックスでは、スクラムハーフの高平
秀俊氏、スタンドオフの太田和典氏、センターの溝口裕正氏、
ウイングの安藤憲治氏、である。安田英明氏は、体も人間性
もとても大きな先輩で、いつもにこにこして、時に沈みがち
な我々1年生に、暖かい励ましの声かけをしてくれた。セット
スクラムでは、1年下の管井昇と、安定度の高い大型プロッ
プ陣を形成し、押し込まれたという記憶はほとんどない。さ
すがに、キックダッシュの練習は苦手で、数が多くなると、
肩で息をしてきつさは隠しきれなかったようだ。ロックの小
田桐徹氏は、練習場に入るや否や、独特な前のめりの姿勢に
なり、いかなる時も、あごをひいて、厚い胸板を突き出して、
腰を低く落とすという二高ラグビー部ロック独自のスタイル
を作りあげた創始者と考えられる、この迷伝説は、次代のロ
ック、玉虫健一氏、田中恒寿氏、私の1年下の村田芳衛氏と
ひきつがれていく。小田桐徹氏がラックにつっこむ時は、頭か
らというより、胸からという感があった。キャプテン金本和
男氏は、すばらしいリーダーシップをもった気力、体力とも
充実した激しさと優しさを両面持ちこたえた名フランカーだ
った。部員の信頼と敬意の念を一身に集め計画的、組織的な
練習をこなしていた。彼自身のプレーは、忠実、迅速なフォ
ローアップと、ラック、モールにおけるするどい縦の突っ込
みは、今でも語り草になっている。練習が終わってからの部
室の下におりて、コーラを御馳走になったあの時の清涼感は
忘れられない。バックスでは、スクラムハーフの高平秀俊氏
は、敏捷、機敏なプレーで、小柄な体躯すべてが運動神経の
固まりという感じで、特にアタックにおいては、常に何かを
仕掛けようと機をうかがっていた。スクラムサイドをくぐり
ぬけていく機敏さは、美しい技そのもので、攻撃のチャンス
を大きく広げていった。スタンドオフの太田和典氏は、あの
ふくらはぎのコンモリとした力コブを、全員が覚えている事
だろう。あの力強いふくらはぎからくり出されるハイパント
は、よく高く舞い上がった。ふくらはぎとハイパント、これ
が私の太田和典氏に対する印象のすべてである。二高ラグビ
ー部、黄金のバックスの切り札は、抜群のラグビーセンスと
豊富な運動量と走力を持ったセンター溝口裕正氏である。1
年の我々にとっては、雲の上の人という感じで「さすが3年
生。」と常に、目標とされる名選手だった。やはりチームに
はいい意味でのなかなか超えられそうにないという技術的、
体力的壁というか、一度はつきはなすようなプレーヤーとし
ての目標がないと、人間は、死にもの狂いで、本気になって
努力をしないのかもしれない。その意味では、溝口氏は、気
高くほかの部員の目標たりうる存在だった。溝口氏がタック
ルされて倒れたシーンは、私は見ていない。しかし、彼が若
くして急逝されたという悲報は、我々を、失意の底につき落
とした。しかし、我々の心の中には、永遠に、名センター溝
口氏のはつらつとしたプレーが鮮やかに、脳裏によみがえっ
てくる。とても不思議な縁というか、私の会社で、溝口氏の
奥さんとチームワークよろしく、ラグビーでなく仕事で一時、
名コンビぶりを発揮した。この代のトリは、年を重ねるごと
に、若くなるという名ウィング安藤憲治氏である。精神的に
も、肉体的にも、まだ30代後半にしか見えないという年不
相応アンバランスのオッチャンである。やはり、彼は、二高、
明大、北陵とラグビー一筋にプレーを続けてきたという事が、
彼の若さを保つ秘訣なのだろう。現役時代、彼はよく走り廻
った。しかし、当時1年生の私でも、だいぶ横に走っているよ
うに感じていた。人呼んで、「横流れのグビーは、早大ラグ
ビーが追究していたスイング戦法、ゆさぶり戦法ではなかっ
たのかと、感じている昨今である。(?)安藤憲治氏のラグビー
に対する情熱は、美しく、すばらしいものがあり、今回、こ
の60周年の記念事業も、私の1年下の粕谷智昭氏と、安藤憲治氏の
御尽力がなければ実現できなかったものと考えている。この
すばらしい3年生の指導の下で、我々1年生は、時にどやさ
れ、時に励まされ、時にタックルの台にさせられ、時に雨の
中の砂利の混ざった泥の中でのフライパン作りのセービィン
グをさせられ、時にキックダッシュでうしろからケツをたた
だ事は、今でも大きな精神的な糧となっている。

  我々の1年先輩、高校21回卒の懲りない面々に登場して
いただこう。フォワードでは、プロップの管井昇氏、フッカ
ーの山口正敏氏、ロックの玉虫健一氏、田中恒寿氏、フラン
カーの砂子田篤氏、西村正敏氏、バックスでは、ハーフの石
垣克之氏、センターのキャプテン小野寺俊氏、ウイングの沼
倉正人氏、フルバックの坂本八郎氏が活躍された。フォワー
ドでは、安田英明氏と大型のプロップを組んだ管井昇氏。セット
スクラムだけでなく、ラック、モールでの当たりは、素晴ら
しく、管井氏がボールを持って走ると、相手はすくんでしま
い、タックルにまともに入らないという感じさえした。世間
は狭いもので、彼の娘さんと私の娘が小学校同級と聞いて驚
いた。私も一緒にスクラムを組ませてもらい、スクラムワー
クのずるさ(?)を学んだ。フッカー、フランカー、フルバ
ックと、オールラウンドプレーヤーであった山口正敏氏。私
は山口氏とは呼びにくいので、旧姓の斉藤氏と呼ばせてほし
い。斉藤氏との人一倍練習でも、話し合いでも、よくやった
コンビと考えている。私が個人的にも最もお世話になった1
人であった。彼はよくラグビーを知っていたし、一番プレー
を楽しんでいたと考える。練習が終わってから、夜空の星の
下、2人残って、フッキングの練習を何十回となく付き合っ
て頂いた御恩は、一生忘れないだろう。彼は、ラグビーに対
しては、常に攻撃的なプレーヤーだった。しかし、タックル
は余り好きなほうではなかったのでは。攻める時と、守る時
の走りが、あれほど違うプレーヤーもいなかったのでは。ロ
ックの玉虫健一氏は、小田桐徹氏の迷伝統の継承者で、あの独
特のスタイルについての話は、酒のつまみとして、十分3時
間は持つであろう。特にハイパントのキャッチングでの、玉
虫氏のぶ厚い胸にはねかえったシーンの数々は、今でもあざ
やかによみがえる。とても穏やかな、真面目な、柔和な先輩
だった。もう1人の継承者、ロックの田中恒寿氏は、玉虫氏
との名コンビで、練習試合での走法は2人とも手を前にダラ
ンとたらして、あごをひいて、胸をつきだした走り方であっ
た。ある時、私はこの走り方をある所で見て納得した。それ
は八木山の動物園だった。2人とも八木山動物園で、フォワ
ードの走り方を会得したのでは。(?)冗談はさておき、忠
実なフォローアップと低いタックルは田中氏の性格を、その
ままあらわしていた。走るタックルマン、名フランカー砂子
田篤氏のタックルに、ラグビーの生き甲斐を見い出したかの
ように、よくタックルにいったプレーヤーと記憶している。
きまる、きまらないは別として。(?)数においては当時二
高ラグビー部ダントツ。1年生の時、よく砂子田篤氏と坂本
氏に「鈴木走れ。」とキックダッシュの時、ケツをたたかれ
たのも、いい想い出である。あのエネルギッシュであった砂
子田篤氏。今でも変わらないであろうか。フランカーの西村
正敏氏。走力のあるフランカーであった。余りに走力がある
ので、試合中、バックスの動きと勘違いすることがたびたび
あった。バックス的な動きをする走力のあるフォワードだっ
た。ハーフとして入部した石垣克行氏。ダンディーで、スマ
ートなプレーヤーだったが、高平秀俊氏の特訓の前にプレーを断
念したのだろうか。(?)以後、マネージャーとして、二高ラ
グビー部を側面から、まとめてもらった。名キャプテン、小
野寺唆氏。走りきるラグビーをめざし、よく走ったものと記
憶している。「キックダッシュの鬼」と異名をとる小野寺氏は、
その温厚、柔和な顔立ちからは想像できない程の練習の量で、
部員をぐいぐいひっぱった。キャプテン小野寺氏は心を鬼に
して、キックダッシュに明け暮れた。練習が終わってからの
タックル、セービィングをよくやったと記憶している。小野
寺氏は、プレーヤーとしても超一流の名選手で、指令塔とし
てチームを率先して引っ張った。快速ウイング沼倉正人氏。
練習では余り本気で走らなかったようだが、試合になると、
キラリと光る玄人好みのプレーヤーだった。忘れる事ができ
ない元気のよい名フルバック「ハッツァン」事、坂本八郎氏、
安藤氏の走法は、次代に、見事に、(?)坂本八郎氏に引き継がれ、
「横流れのハッツァン」は、二高ラグビーの元気一杯のアイド
ルボーイだった。坂本八郎氏の両手でボールを下向きに持って、
くねくねと忙しくボールを左右にゆらしながら走る走法は、
まだ記憶に新しい。当時、コーチとして、とてもありがたい
(?)やっかいな(?)諸先輩が、よく指導にこられた。最も熱
心にこられたのは、立花鶴憲先輩で、フィールディング練習
をよく指導された覚えがある。ハイパントや低い弾道のゴロ
パンを、ぎりぎりの所に蹴っていただき、右に左によく走ら
された。立花先輩がこられると、緊張感はいやがおうにも高
まった。又、山岸敏彦先輩も、ちょっとお酒をめしあがって
いらっしゃって、指導していただいた。何を教えて頂いたか
は、ほとんど覚えていないが[Again,Again]と
酒臭い息で、何度も怒鳴られた事が、今になると、とてもな
つかしい。又、我々フォワードにとっては、高橋清光先輩が
見えると、ピリーと背筋が寒くなった。高橋氏の姿を見るや
否や、フォワード全員が、玉虫スタイルになり、いつでもゴ
ロパンOKという前傾姿勢が抜けきれなかった。今になっても
謎が解けない、道路側の石垣で汗を流した高橋先輩がとても
お好きであったウンツクなる練習は、これこそが、二高ラグ
ビーにしかない迷遺産であろう。なぜ、ウンツクというのか、
誰か、その語源を教えていただきたい。良くも悪しきも、伝
統とはこわいものである。何の懸念も持たずに、手のひらに
突き刺さる石の痛さにも耐えて、愛するウンツクで、その強
さを、高橋清光先輩と競い合ったものである。

  我々の代、高校22回卒では、フォワードでは、プロップ
多田茂雄氏、フッカー鈴木誠一、No8、吉川勝彦氏、バッ
クスではスタンドオフ佐藤憲氏、センター今野由夫氏、 猪股
龍雄氏、ウイング、猪股守郎氏がグランドを駆け抜けていっ
た。プロップ1番多田茂雄氏は、とても頑張り屋で、もくも
くと、ひたむきに練習に打ち込んでいた。きついキックダッ
シュに歯を食いしばり、ウンツクで穴だらけになった手のひ
らをさすりながら、セットスクラムで、ギシーギシーという
先輩がたのずるいスクラムワークをまともに受け、常にタッ
クルの台とされ、まだまだと彼は良く頑張った。ある試合中、
何度も右肩をぐるぐる回して、「おかしいな。おかしいな。」
と一人でつぶやく多田氏に,ノーサイド寸前、セットスクラ
ムの前に私が「多田大丈夫か。」と尋ねると、「肩がはずれ
ているみたい。」とケロッとして言っていた。痛みをもろと
もせず、黙々とセットスクラムを努めた職人プロップだった。
今は余暇をみては好きなチェロを演奏しているとの事。フッ
カーのは、ユアボールをかくのが生き甲斐で、斉藤氏から、
フットアップぎりぎりの裏技を伝授され、一試合に何本かユ
アボールをかいて点に結びついた時などは、何とも言えない
誇りだった。ラインアウトは、一番だったので、おもしろい
チャンスが、幾度かあった。チャージも何回かスポッときま
って、快感を覚えた。ただ一度、三高との練習試合で、チャ
ージに行って、顔をまともに受けて、そのまま後ろにひっく
り返って、20分位、気絶した覚えがある。前後の記憶が無
くなり、頭の中がスカーッとした感じだった。3年生の総体
の時の市工戦が、我々の代のベストゲームだったという快い
記憶がある。ナンバー8吉川勝彦氏。フォワードの核となっ
て、その強靭な体躯と運動量豊富な走力で、常に二高フォワ
ードを引っ張った。フォワードの切り札として、チャンスを
広げていった。二高、東北大、北陵とラグビーを続け、一時
レーばかり考えていて、セットスクラム、ラインアウト、ラ
ック、モール等の組織的な練習は少なかったように思う。と
にかく上げるのが好きなスタンドオフ、佐藤憲氏。ハイパン
トを上げるのが本当に好きだった。後ろに上げる、いわゆる
マイナスキックも、けっこうあり、我々フォワードは、慌て
て戻ったものである。ラックに突っ込むのも好きなスタンド
オフだった。彼の積極性から、一人で持っていってしまう事
も結構あった。「持ち過ぎ」と我々は、彼を揶揄したもの
だ。我らがキャプテン、ミスターラガー、人格者、今野由夫氏
キャプテンである。全てのラグビー部員から、好かれ、尊敬
され、半分、馬鹿にされ、それでも、彼は、情熱で、ぐいぐ
い皆を引っ張っていった。ラグビーと、吉永小百合と、武者
小路実篤と、亀岡階段と、天ぷら定食と、奥さんの空手をこ
よなく愛した名キャプテン今野由夫氏は、「頑張っていくぜ
ー。」と長嶋茂雄に似たかんだかい声で、声をかけ続けた。
当時、ラグビー顧問でおられた氏家良隆先生の「君がた」と
いうフレーズを、いとも自然に使い切った「君がた」今野由夫
夫キャプテンは、階段昇りと、ロードワークを、多く練習に
取り入れるようになった。プレイヤーとしては、名キッカー
でもあり、50〜60ヤードのタッチキックと、角度があれ
ば入るというコンバートには、定評があった。真正面だとた
びたびはずすので、わざと、右中間、左中間にトライしたも
のだった。(?)我々の代は、同点にまで持ち込めば、必ず
勝てるという、変な自信があった。なにせ、じゃんけんに強
いキャプテンである。引き分けに持ち込むと、にんまり笑み
をたたえて、ハーフラインに歩み寄ったものである。そうい
えば、練習後、後輩をつかまえては、よくじゃんけんの練習
をしていたものである。(?)中央大学に進学し、クラブチ
ームの名門、クルミクラブの総キャプンとして、すばらしい
リーダーシップを発揮したという。二高、北陵ラグビーにも
多大の貢献をもたらした愛すべきミスターラガーである。名
センター、 猪股龍雄氏は、ラグビーセンス抜群の決定力のあ
るプレイヤーだった。タックルは、余り好きではなく、足首
にいかず、よくボールにタックルに入った。最もインターセ
プトの多いプレイヤーだった。彼から借りたパンツで、私は、
大変苦い想い出がある。我々の代のしんがりは、ハーフとし
て入部したが、高平先輩のお宮参りの指導から抜け出し、ウ
イングに転向し、華麗なるステップを踏んだ迷ウイング(?)
猪股守郎氏である。練習嫌いで、いつも余力を残してのプレ
ーは、ここという時に光を放った。意外性のラグビーは、二
高ラグビーに新風を吹き込んだ。この他、2〜3ヶ月で、辞
めていった菅原宏氏、岩井(曽根)龍雄氏、スケットでてプ
レーしてくれたサッカー部の竹谷氏を、記録に留めておきた
い。

  一年下の愛すべき後輩諸氏に登場いただこう。フォワード
では、プロップの佐藤進氏、ロックの村田芳衛氏、熊谷清樹
氏、フランカーの安藤俊氏、バックスでは、ハーフの粕谷智
昭氏、センターの菅野豊氏、フルバックの後藤章氏が活躍し
た。プロップの佐藤進氏は、歯をくいしばって、低いセット
スクラムを組んでいたのが印象的であった。ロックの村田芳
衛氏は、高橋清光先輩、玉虫健一先輩の直系の伝統の前傾ス
タイルで、時にメンバーの笑いを誘った。ロックの押しの練
習では、その疲れ切った表情のパーフォーマンスは、フォワ
ードキャプテンだった私の心をするどくえぐり、「村田大丈
夫か。」と声をかけざるをえなかった。明大、北陵とラグビ
ーを続け、人に強いロック、フランカーとして、活躍した。
も一人のロック熊谷清樹氏は、ひたむきな、忠実な玄人好み
のプテイヤーだった。練習中は、ほとんどしゃべらず。黙々
と練習に打ち込んでいた。最初、プロップで入部したが、走
力をかわれて、フランカーに転向した安藤俊氏は、熊谷清樹
氏と対照的に常に、レベルの高い駄洒落を言っては、皆の練
習を疲れさせていた。しかし、よくポンポンと駄洒落が出て
きたものと感心した。あの人なつこい細い目と、少々卑猥に
感じるあの口元の笑みが脳裏から離れない。バックスでは、
ハーフの粕谷智昭氏は、小柄な体躯で、自分に妥協する事無
く、忠実に、熱心に練習に励んだものと感心している。フッ
カーだった私と、コンビを組んで、よく練習をしたものであ
る。名ハーフ高平秀俊氏の厳しいコーチングに対して、耐え
抜き、すべての技を受け継いだ。石垣克行氏、猪股守郎氏が、
ハーフを離れていったのを横目で見て、お宮参りの練習に明
け暮れた。粕谷智昭氏は、元ジャパンの監督、宿沢氏と像が
だぶる。当初走れるプレイヤーではなかったが、常に率先し
て声を出し、「小さな巨人。」粕谷智昭氏は、チームを引っ
張っていった。学院大時代には、中大クルミと連携をとり、
卒業後も北陵の創設に多大なる尽力を注いだ。二高ラグビー
をこよなく愛し、現役の為にも、惜しみなく指導、時間、愛
情、を傾注している姿に、心より敬意を払いたい。最初、フ
ランカーとして入部し、走力をかわれて、バックス、センタ
ーに転向した名ラガー、菅野豊氏は、思いっきりの良い、切
れ味のするどいプレーを見せてくれた。彼は、2年生になっ
てから、最も伸びたプレーヤーの一人だった。この代の最後
は、キャプテンの後藤章氏である。トライゲッターとして、
名ウイング、名フルバックの名をほしいままにした。陸上出
身で、チームで最も快速で、ラグビーセンスも抜群であった。
早稲田大学に進学してからも、GWで好きなラグビーを続けて、
活躍した。今だに酒に酔うと、「うらみのスパイク」のくだ
りで、笑いを誘う。今、俳句をたしなみ、風流を究めている。
大久晧司氏は、マネージャーとして、ラグビー部の屋台骨を
支えた。毎年、今でも、元旦には、粕谷智昭氏の自宅で、懐
かしいメンバーが集まり、楽しい酒を酌み交わしている。

  私の2年下の代、佐藤要氏の率いるチームと記憶している。
フォワードでは、よく仕事で顔を合わせる、今より太目で色
白だった石井陽介氏は、忍耐強い、ひたむきなプロップだっ
た。相当なジャズキチで、保有レコード枚数は、2000枚
以上と聞く。阿修羅と異名を持っていた木村光男氏は、私の
後の攻撃的なフッカーとして活躍した。1年の時から、フラ
ンカーとして活躍した沢田鉄郎氏は、走力のあるガッツマン
であった。ロックで鳴らしたフランケン事、太田郁郎氏は、
その風貌とは裏腹に、気のやさしい男であった。ハーフ、間
宮裕氏は、粕谷智昭氏の厳しい練習に耐え、俊敏なプレーで活躍
した。二中のブラスバンドの後輩で、私がぎりぎり誘って入
部させた大内秀晃氏は、後に、名スタンドオフとして、大活
躍した。1年の時からウイングとして活躍した鈴木重通氏は、
走力をいかして、チームを支えた。決定力のあるフルバック、
佐藤仁氏は、荒々しいプレーとその風貌からヤクザと恐れら
れた。秋保英也氏は、オールラウンドプレイヤーとして、重
宝がられた。管井昇氏の実弟、管井俊氏は、マネージャーと
してチームを支えてくれた。秋保英也氏は、若くして、逝去
されたと聞く。ご冥福をお祈りしたい。

  思いつくまま、私の二高時代のラグビー部のメンバーの顔
が、声が、プレーが、エピソードが、走馬燈のように、脳裏
を駆け巡る。この拙い文章が、当時を思い起こすきっかけに
なれば、幸いである。失礼をかえりみずの文章をご容赦いた
だきたい。

  知的偏重教育の学校教育の中にあって、心の痛みを感じと
れるスポーツを通しての心を高める教育、情操教育、徳育教
育の火は、決して消してほしくない。二高で、気まぐれな楕
円球を追いかけていた時代が、自分の人生において、最も多
感で、好奇心に満ち溢れていた事は、言を待たない所である。
ラグビーを通じて得た人と出会い、そして内的自分との出会
いは、今の私の生き方の大きな支えとなっている。

  すばらしいラグビー精神、No Side.ラグビーの試合中は、
Side(敵と味方)に別れて、チームの勝利の為に、技術を競
い合い、敵を凌駕しようとするが、試合が終われば、Side
(敵と味方)を超えて、ラグビーを愛するスポ−ツマン同志
として、お互いの健闘を称え合う。
  For The Team.ラグビーは、基本的には、フォワードがい
い球、生きた球を出して、バックスが、球をつないで、ウイ
ングが、トライする。ラグビーは、一人のスタープレーヤー
が、一人で持っていくのではなく、15人が一体となるスポ
−ツで、一人一人が、For The Team精神で貫かれている。自
分がトライするというより、自分以外のプレーヤーが、動き
やすいように、自分を律していく。
  One For All.All For One.一人は全員の為に。全員は一
人の為に。含蓄のある名言である。自分を没頭させて、心を
揺り動かすラグビーは、まさに、King Of Sportsである。二
高ラグビーが、近い将来は花園への常連となる事を夢見て、
とこしえに発展し続ける事を祈念して、ペンを置く事とする。
二高ラグビーフィフテーンよ。快い汗をありがとう。仙台二
高ラグビー部70周年を皆でお祝いしたい。

                                            鈴木誠一拝。