雑感94<バカの壁>
 
   今流行語にもなっている話題の「バカの壁」(養老孟司著) を読んだ。
ものを理解する時に、どこかで止まる。もうこれ以上、進めない、理解で
きないという絶対的壁を「バカの壁」と表現する。自分の考えにこだわり、
相手の考えを耳に入れない。全体の状況を考えて、多角的視点から、適切
な判断を下せない。相手が馬鹿だと、本来伝達可能であるはずの情報が、
伝達不能になる。これをとりあえず「バカの壁」と表現しようというくだ
りから始まる。人は、自分のいやな事、知りたくない事、興味のない事に
対して、「バカの壁」を作って、その情報を無視しようとする。耳をかさ
ない人に話が通じないのは、「バカの壁」が原因である。「話せばわかる。」
「一生懸命誠意を尽くして話せば通じるはずだ、わかってもらえる。」と
いうのは、幻想に近いのか。人は、「バカの壁」を築いて、知りたくない
ことに耳を貸そうとしない。人間は、そもそも関心がなかったり、信条的
になっている状態では、話してもわからない。自分は正しくて、相手は正
しくない。「バカの壁」とは、個人の間のコミュニケーションだけでなく、
戦争、テロ、民族間宗教間紛争までたどりつく。互いに話が通じない関係
は世に蔓延している。

  人は、自分の脳に入ることしか理解できない、学問が最終的に突き当た
る壁は、自分の脳である。「バカの壁」は、誰にでもあり、一人一人が、
違うものであるので、様々な解答が生まれても不思議ではない。複数の解
を認める社会が、望ましい住みよい社会である。個性、独創性教育は、脳
や文明の方向性と矛盾する。本来、意識は、共通性を徹底的に追求する。
意識の共通性を徹底的に確保する為に、言語の論理と文化、伝統ができる。
伝統は、本来は、人間の知恵の集積である。個性を伸ばす事よりも、まず、
他人の気持ちを聞き取れる、理解できるような教育の方が大切と考える。

 現代人は、無意識、身体、共同体を忘れている。学習は身体を通した出
力によって成り立つ。共同体の忘却は、共通了解の喪失を意味する。日本
では共同体に機能主義が勝ってしまった。理想の共同体は、人間の理想の
方向の結果として存在する。「理想の国家」が先にあるのではない。かつ
ては「誰もが食うに困らない。」が理想のひとつの方向だった。今はそれ
が満たされ、理想がバラバラとなった。今、理想のひとつの方向と考えら
れるのは、「人生には意味がある。」という考え方である。人生を一言で
言い切れると思っている。人生に唯一の答えがあると思っている。人生の
意味は自分だけで完結するものではなく、周囲の人、社会との関係から生
まれる。日常生活において、人生の意味を見い出せる場は共同体、社会し
かない。人生の意味として今考えられるのは、共同体、社会、環境、周囲
の人、である。賢い脳もバカな脳も外見上の違いはない。利口、バカは結
局、社会適応性でしか測れない。何かの能力に秀でている人はいるが、別
の何かが欠如していることが多い。現代社会は脳化社会、意識中心社会を
作り上げ、肥大化した人間の脳は、言語や芸術、科学、宗教を生んできた。
 
 脳の活動は、y=axという一次方程式であらわされる(y=出力、x=入力、
a=本人の感情や興味の係数)。aがゼロの場合、入力から出力は生まれない。
aが無限大の場合、ある情報、信条がその人にとっての絶対のものになる
(原理主義)。すなわち、aがゼロや無限大の場合、話しても通じないので
ある。たとえば、説教をする老人とそれを聞かない若者、米国とイスラム原
理主義者がなぜ、互いに分かり合えないのか。「Y=ax」の法則である。
Yは脳の反応、つまり行動であるXは情報や状況などの入力。aは、脳の中
の反応係数である。aを「現実の重み」と位置付ける。
 
 現実があやふやの為、人間は何か確かなものを求め、神は、唯一絶対の存
在として、唯一不変の「神=正解」として、徹底的に追求するようになる。キ
リスト教、ユダヤ教、イスラム教等、一神教が、世界の2/3を占めるに至っ
た。経済、金も同様の一神教的フィクションと考えられる。重大な事は、人生
の意味が自分の脳の中ではなく、「外部」にある周囲の人、共同体、社会との
関係から生まれるという事である。例えば、テレビで見たから「あのことは分
かっている。」という思い込みが多々ある。交通事故現場の悲しみや衝撃は、
実はわかっていない。交通事故の死亡者の数を掲示板に示すよりも、死者一名
の現場写真の方が、よほど説得力を持つ。相手が、科学の結論を信じ込んだ時、
科学が宗教と同じ機能を果たすという現象を生じる。科学と宗教は、時々、対
立する。結論が導かれる過程を理解せず、一方その結論のみを信ずるという意
味で、宗教の結論も、科学の結論も、合い入れない事が多い。この世に唯一絶
対の「正解」など存在しないが、人間は唯一不変の「正解」を求めたがる。一
元論になれば、強固な壁の中に住むことにる。それは一見、楽な事だが、向こ
う側の事、自分と違う立場の事は見えなくなる。当然、話は通じなくなる。
『八百万の神の世界』にすむ日本人は、本来、多神教の大切さを身に着けてい
る。日本的、東洋的非一元論的世界の構築が、必要である。日本的、東洋的相
対主義であるならば、他との共存を許容できないような極端な絶対主義を拒否
できる。一定の考え方にとらわれることなく、どんな事態にも滞りなく対応で
きる柔軟な発想を、日本人は、本来身に着けていると考える。

 平家物語の「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり。沙羅雙樹の花の色、
盛者必衰の理をあらわす。奢れる人も久しからず、ただ春のよるの夢のごとし。
たけき者もついには滅びぬ。ひとえに風の前の塵に同じ。」方丈記の「ゆく河
の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」などで詠われているように、
絶えず変わっていく自分を見つめている。 万物は常に変化して 少しの間もと
どまらないのである。万物流転、情報不変は、真理である。個性は、脳でなく
身体に宿っている。人間は常に変化する。しかし、現代は、人間は不変である
ことが当たり前と思っている。人間は変わるのである。脳が、自己同一性を追
求するのは、今日の自分と昨日の自分が違うと困るからである。現代社会が見
落としている大きな問題は、人間不変の前提と、無自覚である。他方、変わる
と思われている言葉による情報は不変で、これを古代ギリシャ哲学者プラトン
は、イデアとなずけている。頭だけで、考えてはいけない。体を使え。筋力を
動かせ。頭の中で、考えられても自分一人では、何もできない。「バカの壁」
を越えられない。体を使うと、自然に身に付くものである。歩けない赤ん坊が、
何度も転ぶ経験から、転ばない歩きを覚えるのが、その真理である。学習とは、
単に本を読み、知識を吸収する事ではなく、学んだ知識は使って、現実に、実
践、応用する事こそに価値がある。日本人は、自分を育ててくれた社会に恩義
を返すという無償の行為が必要になると考える。「バカの壁」とは、自分が知
りたくないことについて自主的に情報を遮断してしまう事をいう。「バカの壁」
とは、「自分の脳が理解できる限界」といえる。理解できないのは、固定観念
の壁の内側のみで生き、外側に広がる世界を知ろうとしない思考停止の状態で
ある。思考停止からの脱出、外向思考が、重要である。人間の意識が、自分だ
けで完結する世界から、常に周りの人との新しい関係作りが重要である。 自分
にたちはだかる「バカの壁」を乗り越える事が、真の意味で学ぶ事、知る事で
ある。自分の「バカの壁」のむこうは、多くの知恵、ロマンが、楽しみが、感
動が、無限に広がっている。人に、「バカの壁」あり。心して生きて生きたい。

                 平成15年11月16日(日)鈴木誠一拝